2012年3月5日月曜日

初春の雪 ~冬の終わり。

屋敷に戻ると、女中達は思いのほか落ち着いていて、
あぁ、彼が怒っているのだな、と気がついた。
触らぬ神に祟りなし、だ。
下手に私を擁護しなければ、彼女達に被害は及ばない。

案の定、私の執事は、
怒髪天をつく程の気迫をいつもの笑顔の中に隠して、
全身に殺気すら漲らせ、私の前に現れた。

私は何食わぬ顔で、濡れたブーツを用意された靴に履き替え、
外套を脱いで執事に差し出す。
執事は、その下が夜着だったことに気づき、眉間に深々としわを刻んだ。

「すぐに湯を使ってください」
「ありがとう。さすがに冷えるな」
「当たり前です」

執事は、外套がしみにならないよう、
裾についた雪を注意深く叩き落している。

「あなたのクロゼットから外套を取り上げようかと思っていたところですよ」
「そうしたら、この格好のままで外に出ただろうな」
「そうでしょうとも」

私は、彼の憤然とした態度に、思わずふふっと笑った。
彼が、弾かれたようにこちらを見る。
それに肩をすくめて返してやると、彼は一瞬で怒りをその表情から隠蔽して、
従順な従者の顔で姿勢を正した。

「この地方でこの積雪は珍しい。使用人たちで希望するものがあれば、
今日は好きな時間だけ庭で騒いで良いこととしよう。
ただし、厨房の者は定刻通りに食事の支度をするように」

「それは……」
「私はもう気が済んだから書斎にこもる。
お前も定刻に紅茶を淹れる以外は、雪遊びをしていて構わん」

それだけ言い残して、浴場に向かおうとして執事に背を向ける。
すると、「失礼」という低い声と同時に、両肩を掴まれて、
強い力で執事の方に向き直らさせられた。

「私は今、お前に仕事を与えなかったか?」

彼の行動に多少なりとも戸惑いながら、
それでも主人として、従者に指示を与えるだけの余裕はあった。
従者はうろたえるように両手を離して、数歩下がる。

「……何かあれば呼ぶ。即座に来られる場所には居ろ」

彼は、はい、とはっきりとした口調で答えて、そこを立ち去った。
私は、その背中を廊下の角まで見守ってから、浴場のほうへと歩き出した。
胸の中に、なにか、体を芯から冷やすような風が舞っているような気がした。

2012年3月4日日曜日

初春の雪

久方ぶりに見た銀世界だった。

昨夜から降り続いた牡丹雪が荘園を分厚く覆って、
それは朝の光を受けると、この世のものとは思えないほどに、
美しい純白の光を放った。

私は夜着から着替えるのももどかしく、
その上に外套を羽織ってブーツを履き、
女中達の目を盗んで玄関ポーチを飛び出した。

まだ屋敷の周辺の雪かきも済んでいなかった。
それどころか、玄関ポーチから先は、
見渡す限りふかふかとした雪の絨毯が広がっていて、
野うさぎ一匹歩いた跡がなかった。
そこへ一歩一歩踏み出していくのは、大変に心地がよかった。

雪は、ぎゅぅ、という音を立てて、
足首を隠すほどまで私のブーツを沈ませた。
おかげで、次の一歩を踏み出すためには、
脚を注意深く、大きく上げなければならなかった。
遠くまでは行けないな、と思ったが、
それでも引き返すタイミングは心得ているつもりだった。

息切れがするほど足を進めてみてから振り返ると、
広大な屋敷がすっぽりと視界に収まっていた。
進行方向を見ると、重厚な正門が雪の帽子を被って佇んでいる。
あの門の向こうの世界に憧れて、家出を企てたこともある。
もうずいぶん昔の、幼少の頃だが。

この門の中に居れば、自分は無条件で守られる。
ここを出たら、もう敵しかいない。
自分を脅かすだけの、敵しかいない。
決して長くは生きられない自分の余生を、
可能な限り穏やかに過ごさせたいと願う者たちの祈りは、
あの頃の自分にとっては、呪い以外の何物でもなかった。
私はあの頃、自分が近い未来に死ぬのだという事実が、
まったく理解できていなかったのだ。今は違う。

私は、門に辿り着く前に、体ごと屋敷に向き直った。

ああ、大きな棺だ。
私はこの中で死んでいくのだ。

死ぬときのためにこんなに立派な棺を用意してもらって、
何の不満を抱くことがある?
生きたところで何も遺さぬ人間だ。
こんな棺の中で死んでいく資格が、私には本当にあるのだろうか。

雪の降った次の朝。

まるで誰も目覚めてこないかのような静けさだった。
風の音もせず、風は吹いていなかった。
ただ、刺すような冷気が全身を覆い始めていた。

耳が痛い。

目を閉じると、その静寂に頭蓋を砕かれるのではないかと思った。
しんとしている。
鳥も飛ばない。草木も揺らがない。何の音も聞こえない。
世界中から音という音が消えてしまったかのようだ。

それとも、私が音を感じることができなくなってしまったのか。
このままここに立ち尽くしていると、
温度も光も失ってしまいそうな気がした。

見渡す限りの雪原は、色彩を拒絶しているようにすら思われる。

ふと思い立って足元の雪を蹴り上げると、
それは大きく跳ね上がり、キラキラと日光を反射した。

2012年2月21日火曜日

雪の降る前。

今朝からずっと頭痛がしていた。
窓の外を見れば、どんよりと厚い雲が垂れ込めている。
雨が降るか、それとも、この冷え込みでは雪になるかもしれない。

カウチベッドに横になっていると、扉をノックする者があった。
返事をするのも鬱陶しいほどに頭が痛い。
いくらか間が空いて、ようやく入室を促す返答をすると、
その声はまるで呻くようなものになった。

やがて静かに扉を開けて入室した執事は、私を見るなり眉を顰める。
体調を心配しているのではなく、単に行儀が悪いと言いたいのだろう。
私は彼には構わず、カウチに仰向けになったままでいた。

彼が歩み寄ってくるたび、空気が揺れるのが解る。
静かなのだ、と思い当たった。
とても静かだ。まだ昼間なのに、何もかもが眠りに落ちたように。

きっと雪が降るのだ、と、私は思った。
こうして寝転がったままで窓の外を見上げると、
まるで湖の底に沈んだ風景を見下ろしているような気がした。
どちら側にいる自分が現実なのだろう。
目を閉じてしまえば、もう何が現実だろうと構わないとすら感じた。

「……私が死のうとしたことがあっただろう」

従者は、まるで刃物を突きつけられたときのようにぴたりと立ち止まった。

「あの日もこんな風に静かで、寒かったな」

彼は、立ち止まった位置から私を観察している。
しばらく彼のしたいようにさせていると、執事は突然、その長身を折った。
気配で気づいてまぶたを上げたとき、彼は私の傍に膝をついていた。

じっと覗き込んでくる優しい瞳。
それをまっすぐに見つめ返してやると、彼は驚いたように目を見開き、
そして、すぐに柔らかく微笑んだ。

「あの日も、あなたの誕生日でした」

嫌な男だ。

私は腹の底からこみ上げてくる笑いを堪えながら、まぶたを下ろした。

2012年2月14日火曜日

GIFT

小箱を手にしたまま、執事は固まって動かなくなった。
それを面白がって眺めている間に、メイド長が書類を受け取りに来たが、
彼はそれにすらまるで気づかないといった風だった。

「お前のために作らせた」

私の机の前に立ち尽くしたまま、彼はじっと小箱を見つめている。
その眼鏡の奥で、綺麗な瞳が動揺しているのがわかった。
小箱の中には、彼のために作らせたカフスボタンが入っている。

彼が知らないはずはない。

これを作らせるために私がどんなに奔走したか、
彼は屋敷の中の騒動によって知っているはずだった。
無論、それを彼に見せ付けるために、私は若干大げさに皆を騒がせた。

「ほんの詫びのつもりだから受け取ってくれ」
「……詫び、と、おっしゃられますと」
「お前に暇を出しそびれたからな」

執事は、顎を引いて少し上目遣いに私を睨みつけた。
可愛いやつだ、と思う。
そんな風に甘えたって無駄だ。

「別に怒っているわけじゃない」
わざとらしく付け加えてやると、執事は小さく肩を竦めて見せた。
「あてつけですか」

酷いことを言う。

従者が身につける装飾品のために奔走する主人が他にいるだろうか。
私の口元に意地の悪い笑みが浮かぶのを見て、
彼は殊更に悔しくなったようだ。

私は、この従順で賢い執事が、
「頂くわけに参りません」と「頂戴いたします」の間で右往左往する様を、
彼がその手で淹れた紅茶と共に楽しむことに成功した。

2012年1月30日月曜日

冬の午後に。

「お暇を頂きたいと思っております」

ティーカップを差し出しながら、執事が言った。
こともなげに。
まるで、夕食のメニューを告げるような口ぶりだった。

「……休暇が欲しいという意味ではないな」
「はい」

執事は、いつものように佇んでいる。
離れていてもぬくもりを感じるほどに近く、暖かな視線と共に。
彼はその視線をそのままに、ここを去りたい、と言う。

「何かあったのか、それとも待遇に不服か」
「申し上げられません」

口を噤む。

言葉が途切れるか途切れないかのうちに、答えが返ってくる。
まるで何もかも、予測していたかのようだ。
すべての答えを用意して、彼は決めたのだ。

それであれば、もう自分に許しを請う必要はない。
決めたとおりにすればよいのだ。
そうして決めたことが、きっと、彼にとって最も正しいことなのだから。

そう言おうと思い、執事のほうを振り返る。
視線を合わせると、彼は驚いたように少しだけ目を見開き、
それから、微笑んだ。

私の執事は美しい。

艶やかな黒髪、白い肌、整った顔立ち、殊更に印象を深くする瞳。
彼はどこか危うげな空気を纏っていて、それはどこか死の香りがした。
それでいて、凛として強く、まるで冬山にそびえる樹木を思わせる。

私は、視線を合わせたまま、首を横に振った。

「だめだ」

きっぱりと、言い放つ。
執事は、目を眇めて笑い、小さく、「そうですか」と呟いた。

彼から、異論はなかった。

2011年7月5日火曜日

私は微笑む。

静かな夜だ。
風が吹いているのに、何の音も聞こえない。
木々のざわめきも、虫たちの鳴き声も。

真夜中、満月が南の空に煌々としていた。
私は裸足で中庭に出て、それを見上げる。
やがて首が痛くなるだろうと思うほど、あおのいて。

申し訳程度に石畳の隙間から顔を出している下草が、
足の指をカサカサと弄っていた。
夜気は今にも溢れそうなほどの水分を含んで、
息苦しいほどの熱気を帯びているのに、
石畳はひんやりと冷えていて、まるで氷のようだった。

ややあって、背後の回廊を横切るものがあり、
私はなんの保障もなしに、それは私の執事に違いないと思った。
彼は回廊の途中で足をとめ、こちらに気づくと、
憤ったような雰囲気をまとって、早足でこちらに来る。

彼は私から数歩離れたところで立ち止まり、
私が振り返るのを待つのだ。
だから、私は振り返らない。

いつまでも、いつまでも、満月が傾くまでそうしていたいけれど、
それは彼が背後から与えるプレッシャーにより叶わない。

私が振り返ると、そこにはやはり私の執事が立っていて、
表情は穏やかなまま、全身に怒りを漲らせていた。
彼は背筋を伸ばして、私の命令をいつでも聞けるように、
じっと耳を澄ましている。
その目は基本的には私の目を見ている。
しかし時折、それは私がまばたきをする程度の隙を狙って、
私が必要以上に薄着をしていないか、私が怪我をしていないか、
……私が泣いていないか、レーダーのように探っている。


私は、微笑む。


すると、彼は途端に拗ねた飼い猫のような目になって、
ゆっくりと右手を差し出す。

私が、その手をとって、この体温を彼に伝えられるように。

2011年6月9日木曜日

初夏の風

つと視線をやると、夜風がカーテンを膨らませたところだった。
ひそやかに、忍び込むような夜気が微かに室温を下げる。
それは、鼓膜を揺らすか揺らさないかという程度の虫の音を伴って、
ゆっくりと部屋の中を旋回しては、また窓の外に躍り出ていった。

傍らを離れた執事が、その窓を静かに閉める。
私は、彼にすぐに戻るようにと促し、手元の本を閉じた。

「どうかなさいましたか」
「……肩が寒い」

弱音だ。
彼はそれを知っていて、あえて私に尋ねる。
私の弱味を握るのは、彼の得意技であり、趣味でもあった。

彼は、まだ濡れている私の髪を乾いた布でゆったりと包み、
丁寧に水分をぬぐっていく。
その心地よさに目を閉じると、耳の奥にまだ虫の音が響いていた。

「かつて、なぜ命とはこんなにも不公平なのかと思っていた」
「……いのち」

彼は、鸚鵡返しにそう言ったきり、私の言葉を待っている。

そうされると、かえって言葉は続かなくなるもので、
私は本当は何を話そうとしていたのかも忘れてしまい、
そんな自分が滑稽で、つい鼻を鳴らして笑った。

「……今はもうそんな考えは持っていない」

おそらく、私の話をよく聞こうとして手を止めていた執事が、
再び仕事を始める。
背後に立つ彼の表情は見えなかったけれど、
きっと微笑んでいるだろうと思った。

「命のあるなしも、公平か不公平かも全部同じだ。
われわれの議題に上がりそうな、一見意味ありげな問いには、
本質的な回答を明示してくれる者が存在しない」

「それでは、あなたは今はどのようにお考えなのです?」

執事が問う。

私は、数秒わざと口をつぐんでもったいぶらせ、
やはりそうと知って黙っている執事を、ゆっくりと振りあおいだ。

「死ぬまでずっと、どっちつかずさ」

執事は、それを聞くとチャーミングにひょいと肩を竦め、
彼にしては珍しく、困ったように笑った。