2011年7月5日火曜日

私は微笑む。

静かな夜だ。
風が吹いているのに、何の音も聞こえない。
木々のざわめきも、虫たちの鳴き声も。

真夜中、満月が南の空に煌々としていた。
私は裸足で中庭に出て、それを見上げる。
やがて首が痛くなるだろうと思うほど、あおのいて。

申し訳程度に石畳の隙間から顔を出している下草が、
足の指をカサカサと弄っていた。
夜気は今にも溢れそうなほどの水分を含んで、
息苦しいほどの熱気を帯びているのに、
石畳はひんやりと冷えていて、まるで氷のようだった。

ややあって、背後の回廊を横切るものがあり、
私はなんの保障もなしに、それは私の執事に違いないと思った。
彼は回廊の途中で足をとめ、こちらに気づくと、
憤ったような雰囲気をまとって、早足でこちらに来る。

彼は私から数歩離れたところで立ち止まり、
私が振り返るのを待つのだ。
だから、私は振り返らない。

いつまでも、いつまでも、満月が傾くまでそうしていたいけれど、
それは彼が背後から与えるプレッシャーにより叶わない。

私が振り返ると、そこにはやはり私の執事が立っていて、
表情は穏やかなまま、全身に怒りを漲らせていた。
彼は背筋を伸ばして、私の命令をいつでも聞けるように、
じっと耳を澄ましている。
その目は基本的には私の目を見ている。
しかし時折、それは私がまばたきをする程度の隙を狙って、
私が必要以上に薄着をしていないか、私が怪我をしていないか、
……私が泣いていないか、レーダーのように探っている。


私は、微笑む。


すると、彼は途端に拗ねた飼い猫のような目になって、
ゆっくりと右手を差し出す。

私が、その手をとって、この体温を彼に伝えられるように。

2011年6月9日木曜日

初夏の風

つと視線をやると、夜風がカーテンを膨らませたところだった。
ひそやかに、忍び込むような夜気が微かに室温を下げる。
それは、鼓膜を揺らすか揺らさないかという程度の虫の音を伴って、
ゆっくりと部屋の中を旋回しては、また窓の外に躍り出ていった。

傍らを離れた執事が、その窓を静かに閉める。
私は、彼にすぐに戻るようにと促し、手元の本を閉じた。

「どうかなさいましたか」
「……肩が寒い」

弱音だ。
彼はそれを知っていて、あえて私に尋ねる。
私の弱味を握るのは、彼の得意技であり、趣味でもあった。

彼は、まだ濡れている私の髪を乾いた布でゆったりと包み、
丁寧に水分をぬぐっていく。
その心地よさに目を閉じると、耳の奥にまだ虫の音が響いていた。

「かつて、なぜ命とはこんなにも不公平なのかと思っていた」
「……いのち」

彼は、鸚鵡返しにそう言ったきり、私の言葉を待っている。

そうされると、かえって言葉は続かなくなるもので、
私は本当は何を話そうとしていたのかも忘れてしまい、
そんな自分が滑稽で、つい鼻を鳴らして笑った。

「……今はもうそんな考えは持っていない」

おそらく、私の話をよく聞こうとして手を止めていた執事が、
再び仕事を始める。
背後に立つ彼の表情は見えなかったけれど、
きっと微笑んでいるだろうと思った。

「命のあるなしも、公平か不公平かも全部同じだ。
われわれの議題に上がりそうな、一見意味ありげな問いには、
本質的な回答を明示してくれる者が存在しない」

「それでは、あなたは今はどのようにお考えなのです?」

執事が問う。

私は、数秒わざと口をつぐんでもったいぶらせ、
やはりそうと知って黙っている執事を、ゆっくりと振りあおいだ。

「死ぬまでずっと、どっちつかずさ」

執事は、それを聞くとチャーミングにひょいと肩を竦め、
彼にしては珍しく、困ったように笑った。

2011年5月25日水曜日

このブログについて。

いまさらですが、このブログについてです。

このブログは、たったんが書いている脳内執事の妄想ブログです。

ここに掲載の文章などはたったんに著作権があり、放棄はしません。

しかし、私の創作物の表現するものや断片が、
第三者によってより良く展開され、公開されることを歓迎します。

悪意のある全てのその方法がとられたとき、私は悲しく思うかもしれません。
しかし、その方法がもし善意に因っていたとしても、
また大変悲しいことですが、悪意に因っていたとしても、私はその一切に関知しません。

これは、私の創作物が完全なゼロから創られたものではなく、
誰かの創作物に何らかの影響を受けて創られたものだからです。


なんとなく書いとくもんなのかなと思って書いただけです。すみません。

彼が何を燃したのか訊ねることはついになかった。

パチ、パチ……

かすかに、火のはぜる音が聞こえた。
野焼きの季節ではないし、こんな暖かな日に焚き火とも考えづらい。
鼻をかすめる、焦げたにおいに誘われて裏庭を覗くと、
そこには小さな焚き火を見下ろす執事の姿があった。

声をかけようとしたが、その必要はなかった。

執事は、ゆっくりと顔を上げ、こちらをまっすぐに見つめた。
そして、彼が時折そうするように、今もまた僅かに目を細め、微笑む。
気になったのは、その仕草があまりにも様式的に見えたからだ。

私はそれから、彼が女中に火の始末を命じて、こちらに歩み寄るまで、
まるで立ち竦んだように、その場に留まっていた。

2011年5月21日土曜日

熱病。

冷たい布が首筋に押し当てられて、徐々に意識を取り戻す。
ぼんやりとした視界の端々に、オーブのような光がちらちらとした。
薄く開けた瞳を、閉じるだけの力もなく、乾いて痛みを感じるころ、
優しい手のひらがまぶたをそっと下ろしてくれた。

死者にそうするような、ゆっくりとした動作は、
不思議と私の心を落ち着けた。

「もう少しお眠りなさい。お疲れでしょう」

耳元に口を寄せて、低く囁く。
彼の言うとおりにしようと試みたが、反して頭脳は覚醒を始めていた。
まばたきをするだけの力もないのに、意識だけがはっきりとしてくる。

また、倒れたのか、あるいは、昨夜から目覚めなかったのか、
それは判然としなかったが、いつもと同じ症状であるらしい。

「近くに居ります」

その言葉は、「例えこのまま目覚めなかったとしても」と続く気がした。

2011年5月20日金曜日

ティー・タイムに。

左手の薬指につけている、プラチナのリングが気になった。
それはずっと昔からそこにあって、執事の指とよく馴染んで沈んだ色合いをしている。
いつでも当たり前に傍にいたこの男の、私生活を自分はほとんど知らない。

結婚をしているのか、と訊ねると、彼は紅茶を淹れる手を止めて顔を上げた。
訊いてはいけない問いを口に出してしまった気がして、
別に答えなくてもいい、と言うと、彼は柔らかく微笑んだ。

「あなたに訊かれたことを答えないわけにはいきませんし、
さほど不幸な話でもありません」

言いながら差し出すカップからは、湯気とともにダージリンの香りが立ち上った。
穏やかな午後だった。

彼がはじめの質問に答える前に、それではなぜ今まで話さなかったのか、と問う。
期せずして、なぜ今まで素性を明かさなかったのか、という口ぶりになってしまい、
ごまかすように紅茶を口に含むと、それは慰めるような優しさで喉を落ちていった。
ふんわりと鼻の奥を抜ける気高い香りが、心を落ち着ける。

その様子を高い位置から見守っていた長身の従者は、
陽光を浴びて紅茶のようにきらめく髪を風に揺らしながら、
ブルーベリー・タルトを載せた皿をこちらにすすめ、

「あなたが訊かないことを、話すわけにはいきません」

そう言って、いたずらを仕掛けた少年のような瞳を眼鏡の向こうで輝かせた。

2011年4月28日木曜日

窓からの光。

銀色のペン先が走る紙面は、じわり、と一瞬だけにじみを見せた。
よく見ると少し筋張った、けれどしなやかな長い指が繊細な文字をつづる。

「ご自身で選んで生まれて来たとでも言うのでしょうか。
まるでご自身の力だけで生きてでもいるかのように話される」

書き物をする手を止めることなく、ゆっくりと穏やかに執事が言った。
ペン先を見つめる視線は、まるで自分の意思を離れた何かを静観するかのようだった。

「そうした人ほど、他人の命もその手でどうにかできると思い込んでおいでです。
そうした考え方ももちろんあるでしょう」

窓からさしてくる午後の光が、彼の輪郭をぼんやりと縁取っていた。
夢を見ているような気分でその姿を眺めていると、
彼は書き物をする手を止めて、ふっと視線を上げた。
しかしその視線はこちらを捕らえることはなく、はるか彼方を見つめている。
彼は遠くの景色を眺めるときのように、かすかに目を細めて、
コト、と小さな音を立ててペンを置いた。

「しかしそれが真理だとお思いなら、どうにかされるのはご自身のほうであることに、
なるべく早くに気づかれるべきでしょうね」